2010年10月29日 (金)

日本基督教団信仰告白

日本基督教団遠州栄光教会に通い出してから、もう4年を過ぎた。
初めて礼拝に参加したとき、礼拝の中で、「日本基督教団信仰告白」なるものに触れた。
バプテスト教会に通っていた時も「主の祈り」と「使徒信条」は礼拝の中で皆で読み上げていたが、この「日本基督教団信仰告白」は、「使徒信条」の前に付け加えるようにして礼拝の中で読み上げられる。
初めてこの告白文を読んだ時、
「何で、こんな当たり前のことをわざわざ「日本基督教団」なんて限定して書いているのだろう。」といぶかしく、また不思議に思った。
HCCでは、私が在籍中?には礼拝の中で「主の祈り」や「使徒信条」を読み上げるという習慣はなかった。ネット放送を見る限り、多分今もないと思われる。
しかし、私は「日本基督教団信仰告白」を聞いて、「当たり前のことを何で日本基督教団、ってタイトル入れてわざわざ読み上げているんだろう。」と感じたのである。

日本伝道出版の「日本基督教団信仰告白を学ぶ」近藤勝彦著 の中にこのようにある。

まず、「信仰告白」とは何でしょうか。・・・・(中略)一つには教会で告白されている「一定内容の信仰告白文」(クリード)を意味します。・・・(中略)個人的な文章とは異なった共通の承認によって権威づけられた文章表現です。しかし「信仰告白」というと、そういう文章表現として確定したものの前に、もっと本来的に、そもそも信仰を口で言い表す行為そのもの(コンフェクション)を意味することがあります。はじめにこの信仰の告白的行為があって、やがて後に用意周到な告白文を産み出すことにもなったわけです。・・・(中略)たとえ一定の形で長文の告白文を持っていない教会であっても、それが生きた教会であれば、かならずや信仰を告白しているに違いありません。信仰告白的でないキリスト教会を考えることはできないのです。祈りをなし、礼拝をしているとき、すでにそれは「信仰告白的な信仰」に生きていると言わなければならないわけです。
*下線はtakakoです。

この下線部分を見て少しほっとしたわけである。
読み上げることに慣れてなかっただけで、信じている事柄は、同じである!ということ。
礼拝をし、祈りをする中で、信じていること事柄の共通事項が明確に信徒一人一人に浸透している。簡単に言えば、「何を信じているのか。」という大事な事柄が、どの教会であっても(多分)一致していることが喜びでもあった。
それは、なぜか。
もちろん、私たちの信仰の拠り所がもっとも権威付けられた聖書であるから。
信仰告白は、聖書を超えるものではない。もし、聖書に沿わないならその告白は意味をなさないし、改定しなければならない。
以下日本基督教団信仰告白文

我らは信じかつ告白す。
 旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
 主イエスキリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖いとなりたまへり。
 神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。教会は主キリストの体にして、恵みにより、召されたる者の集ひなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む。我らはかく信じ、代々の聖徒と共に使徒信条を告白す。
・・・使徒信条につづく。

しかし、よくよ~くかみしめて告白していると、おいおい、この告白通りに説教が成されているか、信徒の信仰はこの通りであるか、と考えさせられることがある。
つづく・・・

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